『森山中教習所』の魅力は、交差したり、しなかったりする人間関係 | レビュー・感想・考察

森山中教習所 サムネイル 漫画

真造圭伍の漫画と出会ったのは、高校生のころ。

何気なく手にとった『森山中教習所』という作品でした。

表紙は少しシュールで、切り絵のような人物画。背景には青空と生い茂った木々、そして平屋の校舎……。

田舎出身の僕は、ノスタルジーを感じずにはいられませんでした。

この作品を読み終わって、すぐに真造圭伍の作品を調べました。当時すでに『ぼくらのフンカ祭』『台風の日: 真造圭伍短編集』『みどりの星』の3作品が発売されていたので買い揃え、以来大ファンに。

ついこの間(といってももう半年以上前の2020年10月)、『ノラと雑草』の最終4巻が発売。そして2021年現在、『ひらやすみ』が週刊ビッグコミックスピリッツにて連載中です。

『森山中教習所』を読んで考えたことや感想をレビューしていきます。

※ネタバレには配慮していますが、読了した方に読んでいただくことを想定して『森山中教習所』のレビュー・考察を書いていきます。

『森山中教習所』

実は『森山中教習所』は、2016年に映画化されています。大学3年生のころ、アパートから5kmほど離れた映画館まで自転車で行って、朝イチの回を観たのを覚えています。

野村周平・賀来賢人のダブル主演。そして ダンカン、麻生久美子、光石研といった往年の実力派が脇を固めています。さらに、『愛がなんだ』の主演で注目を浴びている岸井ゆきのも出演。かなり豪華なメンツですね。

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あらすじ

周囲の人や物事に無関心、無感動な青年、佐藤清高くん。
ひょんな事から、ロハで自動車教習所に通える事になる。
しかし、その教習所は未公認教習所だった。
教習をつうじて周りの少し危ない連中とふれあい、
清高くんは変わっていくのか、いかないのか!?

真造圭伍

1987年、石川県生まれ。「週刊ビッグコミックスピリッツ」(小学館)に投稿ののち、大学3年時にデビュー。
初連載作『森山中教習所』は映画化され話題となり、『ぼくらのフンカ祭』は第16回文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受賞。
その他、代表作に『みどりの星』『トーキョーエイリアンブラザーズ』などがある。新連載『ノラと雑草』で月刊「モーニング・ツー」初連載。

モーニング/モーニング・ツー 著者紹介 » 真造圭伍

『森山中教習所』のときの画力

当時はまったく気になりませんでしたが、いま読み返すと「画力が今とぜんぜん違う」というのが正直な感想です。

いま見ても「味のある絵」だとは思いますが(というかこの絵も含めて真造圭伍作品が好きになったのですが)、『ノラと雑草』から立ち戻るとかなり画力に差があります。

ただやっぱりコマ展開の上手さとか、構図の上手さ、余計な線がないシンプルな描写は、このときからすでに一貫している特徴だと思います。

『森山中教習所』は映画的な1冊

ひとことで感想を言えば、かなり「映画的」な1冊です。

この物語の主人公は、清高くん。すっとぼけた性格というか、マイペースで朗らかなキャラクターです。ですが実は父親に問題があり、定職につかず妻への家庭内暴力が日常茶飯事。彼はそんな家庭環境に、少し嫌気が差している様子。

そしてもう1人の主人公、轟木くん。彼は清高くんの同級生で、高校をやめたあとにヤクザになっていました。養護施設で育ったためにずっと孤独を抱えています。高校時代に唯一彼に声をかけたのが清高くんでした。

この2人が久しぶりに再会して、免許を取るために教習所に通うところが物語の始まりです。普通の青年漫画なら「出会によってそれぞれが成長、変化していき――」みたいな展開になるところですが、この2人の関係性も人間性も、そこまで大きく変わることはありません。

清高くんはずっと少し子供っぽく、マイペースな性格。そして轟木くんはどこか冷めていて、流されるまま人生を送るタイプ。お互いを「人生最大の親友」と認め合うようなシーンも無ければ、「俺はこうならなきゃいけないんだ」と成長を求めるシーンもありません。

こういうふうに言ってしまうと、面白みのない物語のように聞こえてしまうかもしれませんが、言いたいポイントはそこではありません。このお互いに「干渉しすぎない関係性」こそが、「映画的」とも言える物語のリアリティと、「キャラクターのくっきりとした輪郭」を作っているのだと思います。

交差したり、しなかったりする人間関係

「干渉しすぎない関係性」と前述しましたが、これは言い換えれば「交差したり、しなかったりする関係性」です。そしてその根本には、「自由」と「不自由」は人によって違う、というテーマが隠れていると思うのです。

2人の抱える自由さ、不自由さについて考えてみます。

家庭環境に対して

まず家庭環境について。ダメ親に思うところがある清高くんから見れば、轟木くんは家という息苦しい環境に縛られない自由さを持っているように見えます。

一方でずっと孤独を抱えてきた轟木くんから見て、人とのコミュニケーションに苦労せずそれでいて他人にさほど興味も持たない清高くんは自由です。

選択肢に対して

次に選択肢の多さについて。清高くんは「免許を取りたい」と思って教習所に通っています。家族に対してあまり良く思っていないので、おそらく早く家を出たいのでしょう。

一方で轟木くんは、ヤクザの親分から「仕事として」免許を取るように言われています。これまでも運転手としてヤクザの親分を運んでいましたが、実は無免許でした。彼は免許を取ってしまうことで、いよいよ仕事に本腰を入れることになるので、ヤクザの世界から抜け出せなくなるでしょう。

退学、アウトローに対して

「道を外れる」ということも、ある種の自由さではないでしょうか。ここで紹介するエピソードに、この作品の魅力が詰まっていると思います。(なのでちょっと長くなっちゃいました)

過去の回想にて――。高校生のときの轟木くんは何をするにも無気力でしたが、絡まれた相手をボコボコになぎ倒しているところを、たまたま現在の親分に見いだされ、ヤクザの道へ進んでいくことになります。

いよいよ退学する日、1人で教室に佇んでいた轟木くんに声をかけたのが清高くんでした。

「今日、退学届けを出したんだ」という轟木くん。しかし清高くんは、それよりも小説に夢中で「なに、退学?いーんじゃん、すれば」という無頓着ぶり。思わず轟木くんもポカンとしています。

清高くんにとって、それは「あなたの自由でしょ」という考えが根底にあったのではないでしょうか。彼があまり人に対して興味を持たない理由は、根本的には「みんな自由に生きるべき」という考えのためだと思うのです。

道を外れるのも自由――。しかしその考えは、轟木くんにとっては残酷なものだったかもしれません。彼はいつでも無気力で無表情、ヤクザになったのも「声をかけられたから、なんとなく」とかそういうレベルです。でもきっと、そんな轟木くんにだって「誰かに止めてほしい」という気持ちはあったのではないでしょうか。そうでなければ、清高くんに退学することを打ち明けたでしょうか。

どんな人でも、「これでいいのかな」と多少なり迷いながら、行動にうつしていくはずです。清高くんのように本当の自由――すなわち、良い選択も悪い選択もその人に決定権がある――を追い求めることには、「責任」が重くのしかかります。「自分がしたいように、する」というのは、実はとてもむずかしいことだと思うのです。

結局、轟木くんはそのまま学校を去り、ヤクザの仲間入りを果たすことになります。彼はこのときの印象から、清高くんのことを「他人に興味がないやつ」と思っていました。もしくは「いーんじゃん」という言葉を、肯定と捉えているかもしれません。

でもきっと「他人に興味がない」ように見えるのは、前述したように彼の考え方の、ほんの表面的な部分でしかないと思うのです。きっとこのときの真意は、「(どっちでも自由な方を選べば)いーんじゃん」という意味だったのではないかと。

交差する2人、交差しない2人――

この見出しのテーマに戻ります。「交差したり、しなかったりする人間関係」です。

人は、人と関わり合って生きていくしかありません。どんな人でも、自分の人生から「人」を排除することはできません。

よくある反論としては、「人と関わりたくなくて、山ごもりする人もいるよね」というものが思い浮かびます。しかしそんな人ですら、「人を避ける」という関わり方をしているのです。

とはいえ多くの物語の中では、「関係性を描くこと」に注力するあまり、現実的な人間関係のあり方とは少し外れてしまっていることが多いように思います。たとえばとある2人の友情関係やら青春なんやらを描き、2人がお互いを欠かせない相手として認識するという青春ストーリーなど。(どの作品が、とかではなく)

その点『森山中教習所』の中では、かなりリアルな人間関係の機微が洞察されていると思います。人は過干渉を避け、しかし干渉してほしいときもある、という面倒くさい生き物です。

過干渉を避けるのは、お互いが違う人間、そして違う考え方であるということを分かっているからではないでしょうか。人間関係を「線」に例えると、2本の「線」がピッタリ平行にずっと続いていくことはありません。必ずそれぞれの「線」が波形で、ところどころで交わりあっていて、ときにはくっついて、ときには離れて――。

少なくとも『森山中教習所』で描かれる清高くんと轟木くんとの関係は、そんなふうに見えます。それでいて、そんな関係性は普遍的なものであるとも思います。(たとえば中学で大親友だった相手と死ぬまで添い遂げる人が、世の中にどれくらいいるでしょうか)

清高くんと轟木くんとの「線」が交わる接点で、彼らそれぞれの「自由」と「不自由」が物語を紡いでいるのです。そして線と線が交わる一瞬が過ぎたら――。それが、この物語の終わりです。

【まとめ】いーんじゃん、好きにすれば

清高くんと轟木くん、それぞれの考え方は違います。いま求めている自由も、いま感じている不自由さも。

そして2人の人生は、それぞれが求める自由に向かって、それぞれが抜け出したい不自由から脱して、進んでいくことでしょう。

誰にでも「選んだ道、選ばなかった道」があります。そして選択を迫られるタイミングには「どうするのが正解なんだろう」とか、「あのときこうしていれば」とか考えてしまうものです。

でもそんな迷いや後悔を持ったあなたの前に、清高くんが現れたらきっと言うでしょう。

「いーんじゃん、好きにすれば」と。

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