『キッズ・リターン』を観た感想【今さら名作レビュー】

キッズ・リターン サムネイル 映画

【今さら名作レビュー】は、過去の名作を観た感想・レビューを紹介していくシリーズです。

基本的に映画の作品情報以外は、他の人のレビューや解説を一切調べずに書いていきます。

他の人の解釈・解説を参考にした場合は、引用を明記します。

もしかしたらすでに一般に浸透するほど広まっている解釈や、他の人の考えと重複してしまうこともあるかもしれませんが、あくまで映画を観た感想を書いているだけですのでご容赦くださいませ。

今回は北野武脚本・監督の映画『キッズ・リターン』(1996年)です。

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青春の燦(きら)めきって幻想なの?

シンジとまーちゃんが再会を果たすシーンから始まる本作。2人の高校時代から現在までを回想するストーリー仕立てになっております。

多くの人の記憶のなかにある輝かしい青春。その燦(きら)めきは本物だったのか?

そんなテーマ性を感じました。

主人公の2人は、行き当たりばったりな高校生活を過ごし、その後はお互いに才能を発揮する場所を見つけ、やがてすぐに挫折してしまいます。

何をやっても許されるような、責任の伴わない「子ども」である時期から、自分で自分自身の責任を負わなくてはいけない「大人」に変わる時期の、シビアさ、無情さ、のようなものが生々しく描かれていると感じました。

小悪党の大人と子どもの構図

高校生くらいになれば当事者としては「子ども」ではないのでしょうが、全体的な構図としては題の通り、「小悪党の大人と子ども」という対比が見られるように思いました。

ボクシングの減量期にあるしかも未成年のシンジに酒を飲ませるハヤシ、気の良さそうなヤクザの親分とその子分。この人たちがそれぞれ、シンジ、そしてまーちゃんとよく過ごすことになります。

ハヤシは自堕落な自分のほうへシンジを誘う大人です。あまり意志を示さず、流されやすいキャラクターのシンジにとっては、まーちゃんの代わりに良くしてくれる悪友のような存在でしたが、彼が才能を枯らしていく間接的な原因がハヤシにあります。

ヤクザたちは、まーちゃんを子分として受け入れます。「ヤクザになんかなっちゃいけねえ」と当時高校生の2人に諭していたものの、結局はまーちゃんの人生を大きく変えるきっかけになりました。

「小悪党な大人」と表現しましたが、彼らが直接的にシンジとまーちゃんをいじめたり、けなしたりするわけではありません。(※まーちゃんは兄貴分にボコボコにされますが、ヤクザの世界のケジメ的なものと解釈しています。)

むしろ、彼らは2人に対して“よく”してくれる大人でした。

しかしながら、大人と子どものはざまにある彼らにとって、彼らのポテンシャルや無邪気な期待感にとっては、それを裏切る存在だったのではないでしょうか。

ラストシーンの意味

ラストシーンはシンジとまーちゃんのセリフで締めくくられます。

「俺達、もう終わっちゃったのかな?」

「ばかやろう、まだ始まっちゃいねえよ」

なんとなくポジティブな未来を想起させる、あるいは強がりのようなセリフなのかもしれませんが、鬱屈とした展開を振り払うかのようにカラッとした終わり方でした。

このセリフについて考えるにあたって、登場人物を少し抽象化して捉えたいと思います。

  • シンジ:才能も根気もあるが、意志がなく、つねに周りに流されている
  • まーちゃん:才能も根気もないが、何かを成したいという思いが空回り、くすぶり続ける
  • カフェに通う男(ヒロシ):主人公2人との対比?退廃的な2人と違って、好きな人にまっすぐ向き合う
  • 漫才コンビの2人(南極五十五号):こちらも主人公2人との対比?コツコツと実直に努力し、漫才の腕を磨き続ける

これらの登場人物は、構成上、同時期に挫折しています。

登場人物の挫折

シンジは、ボクシングで才能を開花するも、スランプに陥ってしまう。

まーちゃんはヤクザの世界で出世しはじめるも、ヤキを入れられてしまう。

カフェに通いつづけ、意中の女性にアプローチし続けていた男(ヒロシ)は、思いが実り結婚するが、退職や事故をキッカケに破局(?)してしまう。

漫才コンビの2人は、最初はまったく芽が出ず、客席にはほんの2~3人。

登場人物の再起

シンジとまーちゃんの対比として描かれていそうな2組については、物語の終盤では挫折を克服するような描写があります。

  • カフェに通う男(ヒロシ):再びカフェに通い、(元?)妻を映画に誘う
  • 漫才コンビの2人:多くの客の前で漫才をし、爆笑を生む

これらの描写が対比的に描かれていることから、今はくすぶっているシンジとまーちゃんにも、未来に希望があることを示唆しているのではないでしょうか。

最後のセリフの意味

ここまでの考察のまとめとして、『キッズ・リターン』の最後のセリフの意味を考えてみます。

 

「俺達、もう終わっちゃったのかな?」

→「俺達、もう小悪党な大人たちに仲間入りしちゃったのかな?」

「ばかやろう、まだ始まっちゃいねえよ」

→「自分たちがどうするか、どうなるかは自分たち次第だろ」

 

こんな感じの意味に受け取れるのではないでしょうか。

青春時代の挫折を客観的に受け入れて、将来への希望を感じさせるラストシーンと言えます。

 

ちなみにファーストインプレッションでは、やっぱりこいつら能天気なんだなというか、退廃的な行く末を感じさせるラストシーンだと感じました。

このレビューを書いているうちに、北野武から当時の若者へ向けたエールなのかもな、と考えを改めました。

公開当時はどんな時代だったんだろう?

私は1995年生まれです。『キッズ・リターン』は1996年公開なので、当時の世相については輪郭がぼやけています。

ちょっと調べてみたので、気になることをいくつかピックアップして紹介します。

1990年頃

  • バブル崩壊

1994年

  • 愛知県で中学2年生がいじめを苦に自殺
    • 1996年 日本教職員組合がいじめをテーマに教育研究全国集会
    • 1996年 文部省がいじめ調査:前年比多くのいじめ認知という結果

1995年

  • 阪神・淡路大震災
  • 地下鉄サリン事件

1996年

  • 15歳以下の子ども人口2,000万人を下回る
  • 前年の出生率が過去最低に
  • 4年制大学の就職率が過去最低の65.9%

経済の低迷、天災・人災、いじめ問題、少子高齢化、など社会不安を煽るようなトピックに自然と目が行きました。

バブル経済が崩壊するまでの楽観的な思想から、崩壊後の悲観的な状況に転換していくさなか、若者が抱く漠然とした不安ややるせなさが作中にじみ出ていたような気がします。

一方で、WindowsPCをはじめとする新たな電子機器の登場や、『ポケモン』シリーズの開始、など文化・技術の発展についての喜ばしいトピックももちろん半々です。

実際、社会不安が大きく、将来が不透明、という状況は「今もそうじゃね?」と思います。いつの世も、不安と希望は入り混じり、どこに目を向けるか、なのですかね。

参考:キーワードでみる年表 平成30年の歩み|NHK

まとめ

この作品に限らず、映画って鑑賞するときの年齢や状況によってもかなり解釈が変わってくるのが面白いですよね。

この『キッズ・リターン』を当時の大人が観たとき、輝かしい青春時代と、大人になった今とを比較して感傷に浸ったのでしょうか。

あるいは学生時代に観た人は、不良文化に憧れたり、映像美や音楽の素晴らしさに感動したのでしょうか。

私がいま『キッズ・リターン』を観て感じたのは……。

とりあえず私も「まだ始まっちゃいねえ」んですよ、きっと。ばかやろう!

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