『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』を観た感想【今さら名作レビュー】

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン サムネイル 映画

【今さら名作レビュー】は、過去の名作を観た感想・レビューを紹介していくシリーズです。

基本的に映画の作品情報以外は、他の人のレビューや解説を一切調べずに書いていきます。

他の人の解釈・解説を参考にした場合は、引用を明記します。

もしかしたらすでに一般に浸透するほど広まっている解釈や、他の人の考えと重複してしまうこともあるかもしれませんが、あくまで映画を観た感想を書いているだけですのでご容赦くださいませ。

今回はスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002年)です。

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キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

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1960年代のアメリカ。両親の離婚にショックを受けた16歳のフランク・アバグネイルJr.は、単身ニューヨークへ。やがて、お金に困って“小切手詐欺”を思い付く。その天才的な頭脳とチャーミングな魅力で、巧みにパイロットになりすました彼は、偽造小切手を切っては全米各地を豪遊。ところが、FBIの敏腕捜査官カール・ハンラティが犯...

半自伝的小説が原作

『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』は半自伝的小説が原作だそうで。

「事実は小説より奇なり」とは言いますが、まさにそんな感じの内容だと思いました。

正直なところ個人的には、自伝的な作品について、どう捉えていいか分からないところがあります。

映画は面白いものを作ってなんぼだと思いますが、人の人生を描くうえで、脚色はあっても、創作性(芸術性)はあるのだろうか?と悩んでしまうからです。

でもよく考えたら、歴史ものをはじめ、実在の人物を描いた、または実際の人物をモデルにした人物が登場する作品はごまんとありますね。

事実のなかのどの部分に焦点を当てるか、そしてそれをうまく描けるのか、という点において、芸術作品として昇華できるかどうかが決まるのかなと思います。

本作の場合、一貫して主人公と両親との関係性に焦点が当てられており、分かりやすい動機づけになっていました。

実際のところ、気になって主人公のモデル(原作著者)についてWikipediaを参照してみると、逮捕までの過程や犯罪歴は、かなり映画の内容と異なっているようでした。

また英語版Wikipediaにて、原作小説のページを参照すると、そもそも実在のフランク・アバグネイルの犯罪歴自体、小説に書かれている内容の真実性が疑わしいとされているようです。

この記事内ではあくまで映画の内容に基づいてレビューしていきます。

参考:フランク・アバグネイル|Wikipedia

参考:Catch Me If You Can (book)|Wikipedia(英語版)

主人公が詐欺をはたらく理由

主人公フランクが詐欺師になるまでの描写はかなり丁寧に描かれていたように思えます。

仲睦まじく何不自由のない暮らしをしていた主人公一家ですが、父親の仕事には翳りが見え始め、賃貸へ引っ越し。そこで目にした母親の浮気。

ついに両親は離婚するに至りますが、彼はどちらに着いていくか問われ、答えを出せず、家を飛び出てしまうことに。

ここから彼の詐欺師人生は始まりました。

劇中を通して、もちろん詐欺における天才っぷりも描写されましたが、ずっと家族との関係に焦点が当てられています。

ところどころで挿入される父親への手紙。「僕はあなたの失ったものを取り戻します」。

そう、彼のおこなった詐欺はすべて、父親の仕事や財産、離婚してしまった母親、“もとの幸せな家族”を取り戻すことが動機になっていたのです。

一歩引いたところから見ていると、とても幼稚で、とても浅はかな行動です。

家庭崩壊を認められず、現実を直視できないまま、いつか家族の絆を取り戻すことを夢見て、やることはといえば詐欺をはたらき大金を手にすること。

しかし彼自身も、その虚しさに気づいていたのかもしれません。

自分を追う立場にあるFBI捜査官のカールに、毎年クリスマスに電話をかけていたことがそのあらわれです。

家庭崩壊は単にキッカケのうちのひとつでしかなく、フランクにとって本当の不幸は、余りある才能を活かしきれない状況と、孤独、あるいは孤独な状況に自らを置いておかずにいられないその性分にあるのかもしれません。

フランクの孤独

フランクは詐欺師になって以降、もちろん家族とのつながりを求め続けましたが、それ以外にも孤独であることを強調するようなシーンやエピソードが挿入されていました。

クリスマスにはFBI捜査官カールへの電話、大人数でのホームパーティ、ブレンダとの結婚などなど。

ホームパーティのシーンは、初めてカールに電話したときに「話す相手がいなくて寂しいんだろう」的なことを言われたあとに差し込まれていたので、フランクにとって図星だったように見える構成です。

パーティの最中に怪我をした人物へのお見舞いをすると、今度は医師と身分を偽ることになりますが、そこで出会ったブレンダと結婚。追われる身でありながら、ついに身分を偽ったまま新たな家族を作ろうとしました。

彼がどうしてそこまで孤独で、人とのつながりに飢えていたのか――。

そんな大げさなテーマではありません。フランクはまだティーンエイジャーなのですから。

16歳にして家を飛び出し、家族の再建を夢見ていた彼が、いくら非凡な才能の持ち主とはいえ、大人に甘えたいときもそりゃあるでしょう、だってティーンエイジャーなのですから。

彼にとって、本当に必要だったのは、彼をよく理解し、支えてくれる、両親以外のよき大人だったのかもしれません。

カールに電話する際、自身の本当の居場所を教えていたり、再開した父親に「父親なら足を洗えと言ってよ」的な問いかけをしたりと、彼はもう引き戻せなくなってしまっていただけのようにも見えました。

問いかけに対して父親が放った言葉は「今更ムリだ」(元のセリフはおそらく“Ask me to stop”に対して“You can’t stop”かな?)というもの。

この瞬間、きっとフランクは本当の意味で孤独になったのです。

父親は父親で、FBI捜査官の詰問に対しても息子を売らずに守っていた一面があるのですが、フランクからすれば“そういうことじゃない”というか、理想の父親像みたいなものが瓦解してしまったシーンのように思えました。

才能の活かし方

詐欺師になる前から、転校先でフランス語の代理教師役を1週間やりきるほど、主人公フランクには非凡な知的能力と大胆な行動力がありました。

パイロットとしての経歴詐称以降も、ブラフだけで医師として乗りきり、しまいには、たった2週間の勉強だけで司法試験に合格してしまうほどです。

しかしながらその類まれな知能やコミュニケーション能力、そして行動力を、彼は建設的な方面に発揮することができませんでした。

現実においても、人が才能をポジティブな方面に発揮するためにはいろいろな条件があると思いますが、作中において主人公フランクが人を騙すことや犯罪に才能を活かすはめになったのはなぜなのか。また、彼はどうしたらより善く才能を発揮できるのか。

それは物語終盤、FBIへの捜査協力をするようになって以降のシーンが、彼の詐欺師としてのこれまでとは対比的に描かれることによって示唆されています。

そう。自分を追っていたカールが、フランクを全力で守り、信頼し、よき師のように、そして父親かのように接することにより、彼は少しずつ変わっていくことになります。

環境によって善人にも悪人にもなれる。ここでいう環境とはおもに人間関係を指しますが、いくら才能のある人でも、よい方向へと導いてくれる師がいなければ、才能を腐らせてしまうことでしょう。

(高校のときに習った韓愈(かんゆ)の「雑説」を思い浮かべました。)

(参考:千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず|三省堂

フランス語の代理教師だと偽ったとき、母親は呆れかえった様子でしたが、父親はフランクと顔を見合わせ、ニヤニヤと悪友のように笑っていました。

フランクは父親の言葉を引用することも多く、彼にとって憧れの存在ではあったのでしょうが、よき指導者とは言えなかった、という視点もあるかなと思います。

その点、カールは第2の父親のごとく、フランクが才能を善く発揮するためには必要不可欠な導き手となりました。

人を育てるうえで全面的に信頼すること(カール)も、自分の強みを知り才能を十二分に発揮すること(フランク)も、とても素晴らしいことだと思います。自分自身もそうありたいですね。

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